中国の宣教師であるウォッチマン・ニーは、大学時代、大変優秀な学生でした。
しかしその後、イエス・キリストを信じて宣教の働きを始めました。
ある日彼は健康を害して故郷に戻り、弱ったからだを杖をつきながら道を歩いていました。
すると、大学時代に目をかけられていた教授と出会ったのです。
教授は頭のてっぺんから足のつま先まで彼を見つめて、こう言いました。
「君の学生時代には、われわれは君にずいぶん期待をかけていたし、君が何か偉大なことを成し遂げるだろうと望みをかけていた。君は、今このありさまが、君のあるべき姿であるとでも言うのかね」
ウォッチマン・ニーはこの言葉を耳にした瞬間、くずおれて泣き出したい衝動にかられました。
彼は健康もそこない、過去の栄光も失ってしまっていたのです。
彼はとても悲しい気持ちになりました。
しかしウォッチマン・ニーはこのとき、神様に従うとはどのようなことか、どれほどそれが栄光に満ちたものであるかということに目が開かれました。
そして、神様にはっきりとこう告白したのです。
「神様、これは最善の道です。私の選んだ道は正しい道でした」
イスカリオテのユダは、イエス様の足に香油を注いだマリヤを「なんと無駄なことをしたのか」と責めました。
しかし、イエス様はなんと言われたのでしょうか。
それを最高のささげものだと言われたのです。
私たちにとって、最善の道、最高の道は、たとえそれがもったいないと思われようと、神様が願われることをすることです。
それがどれほど人から見てむだに見えても、人を喜ばせるより、神様を喜ばせる道が最高の道なのです。
「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(聖書/マルコ14:9)